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【マルタ騎士団】時代の変遷と騎士団

ロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会 正式な国旗「ロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」
マルタ騎士団 スイス国旗に似てますねー

最近、中東地域の連鎖革命運動でも裏情報の中に何故か?団体名が出て来たりします。
何とか記事にかこつけましたが、広範に渡るので初回は資料的要素が強いですがどうぞお付き合いください。

基本情報などは下記wikiのリンクもご参照ください。
様々な流れの中から気になった点を考察して行きたいと思います。
最終的に現在の支配層をある程度感じ、浮き彫りにして頂ければ幸いです。

※抜けている箇所もあるでしょうが、時代の流れは、最下部の「続きを読む」から展開してご覧ください。

【騎士団】:十字軍時に設立された騎士修道会
【テンプル騎士団】:中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会、神殿騎士団(キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち)
【聖ヨハネ騎士団】:11世紀に起源を持つ宗教騎士団(ホスピタル騎士団~ロードス騎士団)
【マルタ騎士団】:ロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会、カトリックの騎士修道会
【ドイツ騎士団】:ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会(ドイツ人の聖母マリア騎士修道会)

簡単に要約すると、これらは宗教騎士団と呼ばれるもので十字軍時代に宗教信仰を中心に騎士たちが
聖地防衛や巡礼者保護、病院等の社会福祉を行なう為に設立した団体と言う建前になってます。
教会に直属する修道会で、ヨーロッパ各地から志願した騎士や人々が団員を担っていった様です。


マルタ騎士団の発祥は、十字軍時代のパレスチナに発祥した聖ヨハネ騎士団が現在まで存続したもので、
ロードス島及びマルタ島における旧来の領土を喪失しているため国土は有りませんが、
国際連合にオブザーバーとして参加する主権実体を有している準国家体制とも言えます。
独自の憲法・貨幣を持ち、潤沢な資金を擁する。
元々は「病院騎士団」の名があって、現在は「赤十字」と同じように各国で医療などの慈善活動を行なっていて
全世界で90ヶ国以上と正式に国交を結んで活動しているようです。
イタリアローマに騎士団の本部ビルを保有し、建物内はイタリアから治外法権を認められている。

Ordre_Malte_flg.jpgマルタ騎士団国章 <Order of Malta:マルタ騎士団公式サイト> 見事な赤い盾ですね・・・

マルタ共和国とは正式な国交は結んでいますが、戦後、反英抵抗運動や独立闘争があったり
イギリスから独立して現在は連邦内の共和国らしいので影響は色濃く残っている?
もしかするとかつての君主と貴族の微妙な関係性が根底にあるかもしれませんね。
もしくは、カトリックのお膝元ローマにあって何か役割でもあるのでしょうか?
私には騎士団と言う呼称が別働の意味に思えて仕方ありませんでした。

<テンプル騎士団を例に4つのグループ構成の表記>
●騎士 - 重装備、貴族出身
●従士 - 軽装備、平民出身
●修道士 - 資産管理
●司祭 - 霊的指導

*マルタ騎士団員はヨーロッパの貴族の次男以下の子弟により構成された。

当時は各国の君主から完全に独立し、ヨーロッパ各地で王侯貴族から寄進された土地を財源とし、
現在で言う慈善団体やNGO的な存在なのですが、建前とは別に領地の経営だけでなく
植民事業や金融にまで事業を拡大していたそうですから、多国籍企業と言えるでしょうし、
国際金融業の走り的存在とも言えると思います。
問題は騎士の多くが貴族の従子弟から成り立っていた様なのでこの辺にあるのかな?と感じました。
金融商人との連携?とも思われる時代の流れは現代に連綿と受け継がれているのかもしれません。


紀元前はセム系とハム系の異種混同による中心文化、それから北欧ヤペテ系の南下とローマ帝国勃興です。
この南下は、前1200頃の異変によりヒッタイトや黒人文明圏が崩壊した事が転機になったと思われます。
ハム系支配層は特にエジプト文明の流れからエーゲ海の広範に渡って勢力を伸ばした様です。
セム系のヘブライ人やイスラエル人、ユダヤ人は識字率の高さで各地で重用され中東近辺を中心に展開し
同族間で商売の情報伝達なども上手く行なったり、知識が高かったので金融面でも活躍した様です。
ローマ帝国以降はハム系支配層色は薄くなりますが、セム系と共に金融面で暗躍することになる様です。

蛮族と言われたゲルマン系民族が西ヨーロッパから勃興、後にローマ帝国は東西に分割する事になります。
北欧スカンジナビア地方由来のゲルマン族(ヴァイキング)の勃興と背後にあるカルタゴ~ヴェネチア金融商人
よる戦争策謀とキリスト教による文化圏拡大の波が席巻して行き、
北イタリア地方は白黒連合のロンバルディア同盟を生み、一大金融地域が誕生する事になります。
キリスト教による文化圏拡大政策が十字軍によって騎士団を生み出した訳ですが、
金融商人とゲルマン系民族の融合によって、白人系支配層を中心に異種通婚しながら結束していった様です。

封建制度世界の限界を金融の錬金術が文化の拡大を可能にし、君主制へと移行していきます。
この流れの延長線上にあるのが今現在の我々の文化圏であると言えます。
キリスト教を主体とした西洋文化の歴史が何を物語っているのか、良くも悪くも理解出来た気がします。
世界大戦などの争いが何故起こり、争いの不和が何故無くならないのか?
ゲルマン系アングロ・サクソンが西ヨーロッパ~イギリス~アメリカと渡った事を知ると理解出来ると思います。
アメリカとはテンプル騎士団やナチスの亡霊を背負っている国なのかもしれません。
その他のヨーロッパの国々や植民地系の国々も同族系な訳ですから、裏では繋がっているでしょう。
錬金術によって神を超えるかの如く、中央集権化による金融システムを生み出し確たるものとして来ましたが
逆に同族の野蛮な尖兵アメリカの傲慢さがかつてのローマ帝国を反映していて面白いところです。


スカンジナビア諸国(3大国:デンマーク、スウェーデン、ノルウェー)にアイスランド、フィンランドの北欧5カ国です。

デンマーク スウェーデン ノルウェー アイスランド フィンランド

スカンジナビア十字が並ぶと、とても異様に感じます・・・

ギリシャ

そして、現在のギリシャ国旗になりますが、「海の旗」と言われ、青が海、白が空、十字はキリスト教への信仰心を、
青と白の線は「自由か、死か」のギリシアの9音節を表している、また9本の横しまの由来としては、
ギリシャ神話におけるゼウス(木星神)の9人の娘を指すなど、諸説あるそうです。
私の妄想だと、白の横しまは フィンランドを除くヴァイキングの故地4カ国を表しているように思え
「自由と死」の戦いによってギリシャ文明を制覇して十字架が掲げられた暗示があるように感じました。


スイス  赤十字

そして、スイスの国旗、ラテン十字が掲げられています。
キリスト教の名の下に十字軍が活躍した戦果の報償が拠り所を求めた結果なのでしょうか?

赤十字の旗はスイスとは真逆の反転になっています。
「Hospice(ホスピス)」は終末期の患者が残りの時を過ごす近代的なホスピタルの語源だそうですが、
そこでのもてなしから「Hospitality(歓待)」の語がうまれ、病人の看護などの仕事をする部門が
教会の中に作られるようになって今日の英語でいう「Hospital(病院)」が派生したそうです。
そう言えば、聖ヨハネ~マルタ騎士団も同様な役割を担っていましたね。

赤十字と言えば「献血」が思いつきますが、血液は人間に無くてはならない生命線です。
スイスは「献金」によって成り立つ?お金は資本主義に無くてはならない生命線ですが、
「献金」によって集められ「Hospitality(歓待)」を受けてお金が新たな価値などの
役割が与えられるまで静養を受ける「Hospital(病院)」なのでしょうか?
お金は経済に無くてはならない血液だと言われますが、我々は自らの「血液=お金」を
「献血」同様に献上させられているのでしょうか?
税金は「血税」とも言われますが、ルールとして吸い取られて新たに再生され
中央銀行システムによって新たに役割を与えられて我々の生命線として流動しているのでしょうか?

スイスに限らずオフショアや中央銀行(出張所?)も気になりますがとても意味深に感じてしまいました・・・


マルタ十字

最後にマルタ十字です。このシンボルマークも十字を表すそうですが、
騎士団の象徴でもありマルタ共和国とは別に存在しています。
この象徴が後の16世紀宗教改革によって分裂したプロテスタントの影にチラついたりしているのです。
次回でマルタ騎士団のその後の足取りや現代に現れる影などについて考察したいと思います。


現在は金融流通の10%が生活経済、10%が余剰分、残り80%が流動分と言われています。
多少の金融停滞では昔の様に即戦争とはならないのですが、後進国では即生活経済に結び付きます。
これが、暴動や局地戦、民族紛争などに利用され争いが絶えない要因になっていると思います。
また昨今は、金融支配者は流動分を上手く使って金融危機を演出し特定経済を脅かすことで
経済物流全体ををコントロールしようと金融戦争を仕掛けてきます。
これらが全てに飽和状態になるか、大局的に生活経済を脅かす仕掛けを模索しているのでしょう。
人口削減、テロ戦争問題、地球温暖化問題はどの様な相関になるかを熟慮しないと罠に嵌る事になります。
自由市場を求め過ぎ暴走するアメリカと統制や規制を求める声・・・とても危険な香りがします。
情報が重要なツールとなり明暗を別けて行く時代なのだと身に染みて感じています。

このテーマはかなり広範に妄想が拡がってしまい、どう纏めていいのやらかなり迷宮に入り込んでしまいました。
大まかな流れの復習の意味で今回は時系列含め足取りを辿り纏めてみましたが、長く見難いかもしれません。

※抜けている箇所もあるでしょうが、時代の流れは、最下部の「続きを読む」から展開してご覧ください。


読んで頂きありがとうございます。
何か率直なご意見や感想、情報などもコメント頂けると幸いです。

以下は時代の流れと合わせて見て行きます。

●紀元前2600年頃:小アジアのポルトガルのトロイア半島周辺に青銅器文明を持つトロイア文明が栄える。

●紀元前2000年頃:クレタ島のクノッソスを中心に線文字Aを持つミノア文明が興る。

●紀元前1800年頃:バビロニアから本格的な金融システムの派生(中央集権化によるロイヤリティ制度)

●紀元前1500年頃:ペロポネソス半島のミケーネ・ティリンスを中心に線文字Bを持つミケーネ文明が栄えた。

●紀元前1200年頃:ヒッタイト帝国が突然滅亡。一説には天変地異による気象変動とも言われている。
             ギリシャ文明を担ってきたミケーネ文明もこの頃に滅亡している。


●紀元前1200年頃:フェニキア商人が地中海貿易を独占する。地中海沿岸を中心に全域を舞台にして活躍した。
             拠点としていた地中海沿岸の都市の一つにカルタゴなどがある。
※フェニキア民族=原住民カナン人とペリシテ人に後にヘブライ人が流入した総称と言われているそうです。
・カナン人=ハムの子孫、黒人種
・ペリシテ人=紀元前13世紀から紀元前12世紀にかけて地中海東部地域に来襲した「海の民」と呼ばれる諸集団を
 構成した人々の一部で、エーゲ海域とギリシアのミケーネ文明を担った人々に起源を持つとする説が有力である。
・ヘブライ人=民族の始祖アブラハムがメソポタミアのウル(現在のイラク南部)から部族を引き連れて
 「カナンの地」(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされる。

※ペリシテ人はハムの子ミツライム(エジプト)の子であるカフトルの子孫だとあるので黒人種?

●紀元前1021年頃:イスラエル王国誕生、古代イスラエルに成立したユダヤ人王国。

●紀元前922年頃:ソロモン王の死後、部族間の統制を失った統一イスラエル王国は
            北王国として知られるイスラエル王国と南王国として知られるユダ王国に分裂した。

●紀元前850年頃:イタリア半島を南下したラテン人の一派がティベレ川の辺に形成した都市国家【ローマ帝国】誕生

●紀元前800年頃:アッシリアの勢力拡大と支配でフェニキアは徐々に滅亡していった。一方、カルタゴは繁栄した。

●紀元前800年頃:スキタイの勃興、ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。
           北カフカスと黒海北岸でスキタイの古墳が多く発掘されている。
           スキタイは古代ギリシア人による呼称であり、
           この地方はギリシア系の支配が続いた白人系の国々である。


●紀元前722年:アッシリア王サルゴン2世によって北王国滅亡。捕虜による第一次バビロン捕囚が起きる。
          北王国滅亡後、アッシリアの植民政策により、サマリア地方に多くの非ユダヤ人が植民した。
          サマリアには10支族の民のうち虜囚にされなかった人々が多く残っていたが、
          彼らは指導者層の喪失や、サマリアに来た異民族との通婚によって
          10支族としてのアイデンティティを喪失した。
          サマリアは正統派のユダヤ人から異民族との混血の地として軽侮されることになる。

●紀元前586年:アッシリアにエルサレム神殿が破壊され、支配者や貴族たちは首都バビロニアへ連行され、
          第二次バビロン捕囚が起きる。ユダ王国の滅亡。

●紀元前200年頃:カルタゴもローマ帝国に滅ぼされ、金融家たちは莫大な資産を伴ってイベリア半島に脱出
            イベリア半島を中心とした地中海沿岸にユダヤ人都市が多数忽然と現れた。



カルタゴ金融商人は、キリスト教という手段でローマ帝国を徐々に乗っ取り解体していくことになる。
※宮廷番頭として金融を預かり、貴族を懐柔して戦争を策謀し、資金調達名目で所領を担保に取り込んだ。

●313年:ローマ諸皇帝による「ミラノ勅令」によってキリスト教が公認されて行き、国教化が始まる。
    キリスト教が公認されると、キリスト教発祥の地であるパレスチナ、キリストの生地であるベツレヘム、
    受難の地であるエルサレムへ、その遺構に参拝する信者が旅行するようになった。
    また各地の殉教者記念堂も巡礼の対象となった。
    エルサレム、バチカン、サンティアゴ・デ・コンポステーラはキリスト教三大巡礼地である。
※こうした巡礼の旅で病に倒れた人、宿を求める人を宿泊させた巡礼教会、
 その小さなものを「Hospice(終末期の患者が残りの時を過ごす近代的なホスピスの語源)」と呼んだが、
 そこでのもてなしから「Hospitality(歓待)」の語がうまれ、病人の看護などの仕事をする部門が
 教会の中に作られるようになって今日の英語でいう「Hospital(病院)」が派生した。
 ゆえに「Hospital」は、「病院」だけではなく、「老人ホーム」、「孤児院」の意味も持つそうです。
    

●400年頃:395年テオドシウス1世が死去、2人の息子アルカディウスとホノリウスを共に皇帝として、
        ローマ帝国は東西に分割された。

●409年:ローマ帝国がブリタンニアを放棄した後、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺にいたゲルマン人が、
      グレートブリテン島に渡ってきた。彼らは先住のケルト系ブリトン人を支配し、
      ケルト文化を駆逐した。これが英国における最初のアングロ・サクソン人である。

※アングロ・サクソン人=アングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称である。

●480年頃:西ローマ皇帝というのはロムルスの時代には事実上、なんの権威も持っておらず、
        オドアケル将軍たちの様なゲルマン人が実権を握っていた。
        オドアケルは東ローマ皇帝ゼノンへ西ローマ皇帝位を返上し、
        ゼノンが全ローマ帝国唯一の皇帝(もちろん名目上のことである)となり、
        オドアケルはその代理としてイタリアを統治する、という形式を取った。
        事実上の西ローマ帝国滅亡となった。
        西ローマ帝国の最も重要な遺産であるカトリック教会に感化されて、
        新生の好戦的な蛮族(ゲルマン人?)の王国が、西ローマ帝国の瓦礫の中から発生し、
        ついにはカトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用した。
        徐々にこれら蛮族が、自らをローマの遺産の「真の相続者」に仕立てて行った。

●697年:カルタゴ金融商人が拠点都市の一つとしたのがヴェネチアだった。
      ヴェネチアは国際交易都市として発展し、ヴェネチア共和国が誕生する。(有色人種系金融都市国家)
      
フェニキア~カルタゴ~ヴェネチア

●700年頃:ハザール汗国台頭、カスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧国家。
           突厥衰退によって北部からスキタイが流入、
           原住トルコ白人系コーカソイドと同化し白人系主流の国家として独立して行った?

●730年:ハザール国王ブラン・カガンがユダヤ教に改宗し、
      カフカスを超えてアルメニア侵入ののちアルダビールまで占領した。
      イスラエル起源でもないハザールがなぜユダヤ教を受容したのかについては定説はないが、
      イスラーム帝国および東ローマ帝国というイスラーム教・キリスト教の大国と隣接していた事と
      関連性があるのではないか(両国から敵視されない宗教を選んだ)とも言われている。
      なお、ハザールと東ローマ皇帝ユスティニアノス2世、コンスタンティノス5世は通婚している。

●962年:ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により、カロリング的ローマ帝国の継承者として
      皇帝に戴冠、事実上の神聖ローマ帝国誕生となる。
※皇帝による絶大な権力支配は、諸貴族達に大きな不満をもたらす結果となった様です。
 異民族をそそのかし、戦争を喚起させる事で多額の借金を背負うことになった皇帝は
 担保としていた領土を貴族達に奪われる事になり、皇帝権限が及ばない土地が
 貴族達の所領となり都市国家として独立して行く流れが生まれた様です。


●9世紀後半:ハザールの都イティルをキエフ大公国のスヴャトスラフ大公に攻撃され国家は解体へ向かった。
         これにより、指導層は東ローマ帝国を頼って、東ヨーロッパに流入していった?

●1100年~:北イタリアで都市共和国が誕生する。(白人種系金融都市国家)
        十字軍遠征から最大の利益を引き出していた北イタリアの諸都市が、独立の都市共和国を形成。

●1179年:第3回ラテラノ公会議-シリア商人とキリスト教徒修道院は高利貸しが出来なくなったと言う
       記述が見つかっていて、高利貸しはユダヤ人だけの特権となった?


●1200年~:北イタリアからスイスの商業都市が、ミラノを中心としたロンバルディア同盟を結ぶ。
        その後、ロンバルディア地方のイタリア金融家がロンドンのシティーに進出して行った。
        ※白黒金融勢力の同盟?

●1307年~:テンプル騎士団の破滅は突如として訪れた。13世紀の終わり、中央集権化を進めていた
 フランス王フィリップ4世は財政面で幾度も騎士団の援助を受けていたにもかかわらず、
 自らの新しいアイデアに夢中になっていた。それは当時もっとも勢力のあった2つの騎士団、
 テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を合併し、自らがその指導者の座について聖地を再征服。
 その後、自分の子孫にその座を継承していくことで自らの一族が何世代にわたって全ヨーロッパに及ぶ
 強大な影響力を及ぼすという夢であった。
 騎士団の一部は弾圧を予測し、船団に移しておいた富で交易を続け、海賊行為にも手を染める。
 そして交易ルート確保のため、港々に「ロッジ(集会所・支部)」を構築していく
 これが後のフリーメーソンの礎ではないかと言われている。

 ロッジでは保険業務も行われており、今日の金融・保険業の源流となる。

※ヴェネチアは元々利子の取得を禁止していたが、14世紀には解禁、国際金融都市として急速に発展した。



騎士団の流れ~

★1096~1249年:十字軍成立の背景

東からは新興イスラム勢力によって脅かされ、東ローマ帝国は8世紀以降、窮地に立たされていた。
11世紀~、西ヨーロッパ勢が農業技術を基盤に力を蓄え膨張し始め拡大の勢いがあった。
キリスト教教会が「正統と異端」をめぐり東西分裂、西ヨーロッパゲルマン人との不和は深まっていた。
同時期に東ローマ帝国にギリシア正教が成立していった。

500px-ChristianityBranches-2JP.png

混迷する情勢の中、トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領される。
東ローマ帝国の復興を目論んだアレクシオス1世コムネノス皇帝がローマ教皇ウルバヌス2世に支援を要請する。
自らの勢力を拡大しようと野望を持つローマ教皇は東方のキリスト教に対する優位性の好機から
東ローマ帝国の支援要請を受け、異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を大義名分として
訴えと呼び掛けを行い、十字軍は組織されていった。

※実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、
 中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されて
 カトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、
 第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。



★1096~1197年:3大騎士団=テンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)・ドイツ騎士団

【テンプル騎士団】
ヨーロッパ各地と聖地エルサレムを繋ぐ巡礼領域において一大勢力に発展して行く。
独自の船舶を保有していた騎士団は地中海の制海権を独占し、中東への兵員・巡礼者の輸送、
香料やシルクなどの中東物産を積載してヨーロッパで売る貿易によって莫大な富を得た。
この財を元手に手形取引や銀行業務など金融の基礎となる業務を始めた。
ダーティーな側面として、奴隷商売や要人誘拐による身代金接収などの噂もあります。
こう言った背景からあらゆる物を引き付けて行ったのでしょう。

【聖ヨハネ騎士団】
テンプル騎士団と同様に徐々に軍事的要素を強めていった。この時代は聖ヨハネ騎士団か病院騎士団と呼ばれる。
医療に従事する人々は騎士とは呼ばれなくなり、俗世を捨て修道士と同じ規則を課された者たち
貴族の子弟が圧倒的に多い)が武器を持ち騎士と呼ばれるようになっていった。
騎士修道会は十字軍国家の防衛の主力となり、聖ヨハネ騎士団だけで2つの大要塞と140の砦を守っていた。
1187年にエルサレムが陥落した後もトリポリやアッコンを死守していたが、
1291年ついに最後のキリスト教徒の砦アッコンが陥落した後はキプロスに逃れた。
この後は海軍(実態は海賊)となってイスラーム勢力と戦ったが、キプロス王が騎士団の存在を
恐れたこともあり、1309年に東ローマ帝国領であったロードス島を奪いここに本拠地を移した。
これ以降、ロードス騎士団と呼ばれるようになる。

【ロードス騎士団】
1312年にテンプル騎士団の資産が没収されたとき、かなりの部分が聖ヨハネ騎士団に与えられた。
また、中東のイスラーム教徒と戦う唯一の主要な騎士修道会となったため、
西欧から多額の寄進を受けることができた。
騎士団の構成員は騎士が500人程度で、母国語によって8つの騎士館グループに分かれていた。
各グループ毎に騎士館長(戦闘の際には部隊長となる)がおり、全体を騎士団総長が統率した。
各騎士館の構成員の人数が常に均等であったことはなく、フランスの3騎士館、
スペインの2騎士館の人数が突出していた。
1444年にはエジプトのスルターン、1480年にはオスマン帝国のメフメト2世の襲撃を受けたが、
騎士団はこれを撃退した。西欧では久しぶりのオスマン・イスラーム勢力に対する勝利として
騎士団の評判は高まったが、1522年、オスマン帝国のスレイマン大帝が400隻の船団と20万人の兵で来襲した。
対する騎士団側は雑兵まで含めて7千人ばかりで、必死の防戦を繰り広げたが衆寡敵せず、
ついにロードス島を明け渡してシチリア島に撤退した。

【マルタ騎士団】

再び本拠地をなくした騎士団だが、教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝カール5世の斡旋により、
シチリア王からマルタ島を借りることになった。賃貸料は毎年「マルタの鷹」1羽である。
このマルタ島でも、ロードス島のときと同様にイスラムやヴェネツィアのユダヤ人に対し海賊行為を行い、
マルタ島はイスラーム教徒やユダヤ人の奴隷売買の中心地となった。

1565年に再びオスマン帝国の大船団に襲われる事になるが、スペイン救援と1566年スレイマン1世の死によって、
辛うじて防衛に成功した。このときオスマン軍撃退に活躍した騎士団総長ジャン・ド・ラ・ヴァレットにちなんで
マルタ島の主要港がヴァレッタと名付けられた。1571年のレパントの海戦でもマルタ騎士団の船が参加している。

16世紀に宗教改革が盛んになると、西欧各地の騎士団領は没収されるようになり、
その力と存在意義は次第に失われていった。
17世紀には、ロシア海軍やフランス海軍の一部として組み込まれるようになった。

1798年、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征の際にマルタ島を奪ったため、
根拠地を失った騎士団は正教国家であるロシア帝国を頼り、
1801年にロシア皇帝パーヴェル1世を騎士団総長に選んだ。
1803年には再びカトリックの総長に戻るが、これ以降は求心力を失い、各地の支部が独自に活動するようになる。
1834年に本部はローマに移った。

【ドイツ騎士団】
本来は12世紀後半のパレスチナで聖地巡礼者の保護を目的として設立されたが、
イスラム教徒に根拠地を奪われパレスチナを離れた。
1226年バルト海南岸のクルムラントを異教徒から防衛するためにポーランド貴族の救援要請を受けて、
後のプロイセン王国の建国に繋がる東方植民の先駆けとなった。
実際のところは地中海の制海権を得られなかった為、別に新たな存在意義を求めてたとも言われている。
1283年現在のポーランドにプロイセン王国「ドイツ騎士団」の国家が設立される。
このドイツ騎士団が、後のナチス親衛隊SSのモデルとなったとも言われるそうです。


読んで頂きありがとうございます。
何か率直なご意見や感想、情報などもコメント頂けると幸いです。
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プロフィール

Toshi

Author:Toshi
いつからか世俗の矛盾や不思議を感じながら生きている自分に気付きました。妄想から見えない何かを感じ、カタチとして表現できたら何かが得られると信じる中年オヤジです。

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